”医者の不養生”とはこのことだ。

医者の不養生

 

スポンサーリンク

 

 

悪いことというのは大抵の場合、重なるものである。

 

夕食を食べすぎてお腹を壊してしまう、歯磨きで歯茎を痛めて出血させてしまう、朝から雨が降り出す、急いでいるのに信号に全部つかまってしまう、というような有様。

 

そんな時に「悪いことって重なるもんだよ」って誰かに言われたら、イラっとしてしまうかもしれない。

 

とにかく僕は午前の(久しぶりに)忙しい外来が終わり、診察室でホッと一息ついていた。

 

電子カルテの画面をぼーっと眺めていると、午後からの予約患者さんがポツリ、ポツリと音を立てるように増え続けている。

 

強酸性の雨粒が、ポツリ、ポツリと頭の上に落ちてきて、僕の毛根細胞を破壊するみたいに。

 

 

何か楽しいことを考えようと思い、近所の公園でいつもウロウロしている茶色の毛をした野良猫の猫背をどうやって矯正しようかと考えてみた。

 

まずは昨日のおでんの残りのチクワで茶色の猫をおびき寄せて、チクワを食べている時に上から背中を押さえつけて、それから・・・・・・。

 

「ねえ先生?」と診察室で横から僕の様子を眺めていた看護婦さんが突然呼びかけてきた。「インフルエンザのワクチンって打ちました?」

 

「インフルエンザのワクチン?」僕はその看護婦さんの方を振り返った。看護婦さんは午後からの外来患者さんのために物品整理をしていた。

 

「インフルエンザのワクチンって、みんな打ってるの?」

 

「もちろん打ってますよ。だってインフルエンザの患者さんがいっぱい病院にくるじゃないですか。うつされると大変だし・・・」

 

「あんなワクチン、効かないよ」と僕は看護婦さんの言葉を遮るように言った。「インフルエンザなんて何種類も型があるわけだし、理屈から考えてもワクチンが効くなんておかしな話だよ」

 

「えっ?でも予防接種をしている方が、インフルエンザにかかった時に熱があまり出ないとかみんな言ってますよ」

 

物品整理を終えた看護婦さんは、ポケットからハンドクリームを取り出して、カサカサになった両手に白いクリームを塗り込みはじめていた。

 

「そんなの都市伝説だよ」

 

「そうなんですか?」

 

「そりゃそうだよ」僕は言葉を続けた。「世間の人たちは製薬会社に踊らされてるだけだよ。効きもしないワクチンを接種させるために、どれだけ製薬会社がインフルエンザの恐怖を宣伝しまくっていることか。僕は医者になって十年以上になるけど、インフルエンザの予防接種なんか一度もしたことないよ。もちろんインフルエンザにかかったことなんて一度もないし」

 

「そうなんですか〜。確かに予防接種してもみんなインフルエンザにかかってるし、痛い思いをして注射しても結局は無駄ってことなんですね」

 

「そうそう。痛いし医療費の無駄遣いだよ。僕はこのインフルエンザの予防接種だけはこの世の中から消し去りたいんだよ。核ミサイルをこの世の中から消し去りたいのと同じくらいに」

 

「先生って変わってますね」

 

「子供の頃からよく言われてたよ」

 

カサカサの両手にハンドクリームを塗り終えた看護婦さんは、お昼休憩のために診察室から出て行きたそうにしているのがわかった。僕もめんどくさいインフルエンザワクチンの話を打ち切りたかったので、話をやめようと思った。書類をまとめて、診察室のカーテンを開けて出て行こうとする看護婦さんが振り向きざまにこう言った。

 

「あ、そういえば今日もインフルエンザの患者さんがたくさんいましたよ。先生も気をつけてくださいね」

 

親切心からの言葉なのに、なぜかその日は”インフルエンザ”という言葉に拒絶反応を示すようになっていた。正確には”インフルエンザの予防接種”という言葉だけど。

 

「大丈夫だよ。ほら、この診察室の中でこんなに深呼吸したって全然ビクともしない。僕はインフルエンザなんかにかからないんだよ」これでもか!というくらい、僕は大きく深呼吸を繰り返して見せた。

 

「先生って、本当に変わってますね」

 

「うん、昔っからそう言われ続けて、ここまで来た」深呼吸をやめて、僕はもう一度そう答えた。

 

「午前診、お疲れ様でした〜」

 

「お疲れ様です」

 

医者の不養生

 

 

その日の仕事を終えて、いつも通りの海岸沿いの道を車で帰った。夕日に染まる瀬戸内海を横目に眺めながら、大好きなバド・パウエルのCDを大音量で聴く。この時間が僕は大好きだ。

 

でもその日はいつもとちょっと違っていた。両膝が妙に痛くて、いつも以上に腰や背中が痛かったのである。家に帰ってからはさらに症状がひどくなった。体中の関節という関節がギシギシと痛み始め、夕食の味付けもなんだかよくわからなくなっていた。今日は早めに眠りにつこうと思い横になったけど、全身倦怠感と頭痛に襲われてなかなか寝付くことができず、挙句の果てには39度台の発熱。これはもしや?と不安になり、弱った体にムチ打って病院を受診することにした。

 

そして診断結果は、昼間に散々こき下ろした「インフルエンザ」だった。

 

 

インフルエンザに感染すると、感染を拡散させないように仕事を休まなければならない。それ以前に高熱と関節痛にうなされて、体を動かすことすらできない状態であった。

 

翌朝になり、インフルエンザで仕事を休むということを伝えるために病院に電話をかけた。病院の代表電話から、脳神経外科外来の受付につないでもらった。受付の女性が電話に出てくれた。

 

「アキラッチョだけど、インフルエンザにかかっちゃって・・・」

 

「まあ、それは大変ですね」ありがたいことに、心配そうな声で対応してくれた。

 

「インフルエンザの時って、休まないといけないよね?予約の患者さんには申し訳ないけど・・・」

 

「大丈夫ですよ。こちらでなんとか対応しておきます。早く病気を治してくださいね」

 

朝一の忙しい時間帯なのですぐに電話を切ろうかと思ったけど、僕はもう少し話を続けることにした。

 

「そういえば、インフルエンザワクチンってみんな打ってるの」

 

「もちろん打ってますよ。インフルエンザの患者さんも多いですし」

 

「そりゃそうだよね。あ、あと一つ。昨日僕が使った診察室って、今日誰か使うのかなあ?」

 

「先生が休まれるのであれば、今日は誰も使わないと思いますよ」受付の女性が僕と電話をしながら、手元で何か他の仕事をしているのがなんとなく電話の向こうから伝わってきた。

 

「外来の看護婦さんに伝えて欲しいんだけど、くれぐれもあの診察室で深呼吸だけはしないようにして欲しいんだ」

 

「深呼吸ですか?」

 

「うん、深呼吸」僕は話を続けた。「あの診察室にはインフルエンザの予防接種をした人でも感染するような、恐ろしいタイプのインフルエンザウイルスが飛んでいるはずだから、絶対に深呼吸だけはしないように注意して欲しいんだ」

 

「あ、はい・・・。そのように看護婦さんには伝えておきます」

 

「くれぐれも深呼吸だけはしないように伝えておいてくださいね」

 

「先生って、変わってますね」

 

「うん、昔っからそう言われ続けて、この有様だよ」

 

「先生、くれぐれもお大事にしてくださいね」

 

「ありがとう。ちょっと横になって、このインフルエンザと戦わないと・・・」

 

「それでは失礼します」

 

プツっ!プーっプーっプーっ・・・・・・。

 

 

スポンサーリンク