今回は、僕が医師国家試験に合格し、晴れて脳神経外科研修医になった頃のお話です。
右も左もわからない研修医なので、最初から難しい脳疾患の患者さんを一人で担当するということはなく、指導医の先生について患者さんをただ横から診させてもらっているというだけの日々が続きます。
そんな研修医時代のアキラッチョが主治医となった、わずか5才の小児脳腫瘍(グリオーマ)患者さんとの思い出話をしてみようと思います。
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【目次】
研修医1年目、小児脳幹腫瘍(グリオーマ)の子供さんの主治医になる
研修医1年目の春、僕は指導医の先生と一緒に「小児脳幹腫瘍」を患った子供さんの主治医になることになりました。
別名「小児脳幹グリオーマ」とも呼ばれる悪性疾患で、手術や抗がん剤などの治療で完全に治る病気ではなく、ほとんどの子供さんが最終的に亡くなられてしまう恐い病気です。
その小児脳幹腫瘍の治療目的で入院してきたのは、5才のとても可愛い女の子でした。
名前は”まほちゃん”です。
その年の一月頃から歩くときにフラフラするようになり、数ヶ月でまっすぐ歩くことができなくなったということで脳のMRI検査を受けました。
そして診断は、残酷にも「小児脳幹腫瘍」
生命予後は平均で一年にも満たない、小さな子供さんを襲う残酷な脳の病気なのです。
入院して来たばかりのまほちゃんに会うため、指導医の先生と小児科病棟の病室へと足を運びました。
その病室には、髪の毛を二つにくくり、クリッとした二重の可愛い目をした女の子が、ベッドの上にちょこんと座っていました。
ニコニコとした笑顔で僕たちを待ってくれていたようです。
突然訪れた僕らを見上げて少し緊張していましたが、僕が笑顔で「まほちゃん、こんにちは」と挨拶をすると、人懐っこい笑顔で「先生、こんにちは」と挨拶してくれました。
ベッドサイドにいたご両親からは「先生、まほのことをよろしくお願いします」と頭を下げられました。
とても温和で優しそうな雰囲気のご両親で、温かみのあるご家族だなあと思いました。
今後の治療方針について一通り説明し「また明日も来ますね」と一言残してその場を立ち去ろうとした時に、「先生、また来てね」と、まほちゃんに笑顔で言われました。
「また明日会いに来るからね」
「うん!」
こんな感じで、5才の脳幹腫瘍の女の子との長いようで短かった診療の日々が始まったのでした。
つらい治療でも笑顔で頑張る「小児脳腫瘍」の子供たち
まほちゃんの脳幹腫瘍の治療方針は「放射線治療」でした。
腫瘍が発生した「脳幹」という部分は、生命を維持するために最も重要な働きをする場所なので、手術で腫瘍を取り除くということは非常に困難な場所になります。
したがって、外から放射線を脳幹腫瘍の部分に集中的にあてて、少しでも悪い細胞をやっつけようという治療を行うことになりました。
僕は研修医でしたが、一応肩書きは”主治医”です。
具体的な治療計画や検査の段取りなどは、指導医の先生がすべて取り仕切っていましたが、日々の診察やカルテ記載は僕の仕事です。
毎日のようにまほちゃんのベッドサイドを訪れて、脳幹腫瘍による神経症状の悪化や、放射線治療による副作用が出ていないかどうかを診察するのでした。
まほちゃんは、僕が来るのを毎朝待ってくれていました。
朝起きたらきちんと髪の毛を二つにくくり、ベッドの上にちょこんと座って、毎日僕が来るのを待ってくれていたのです。
頭に放射線を当てる治療なので、ご飯が食べれないほどしんどい日もあったはずなのですが、辛い治療を物ともせずに、いつも笑顔で「先生、おはようございます」って挨拶してくれました。
研修医の仕事は、朝から深夜まで走りっぱなしの激務でしたが、まほちゃんはいつも笑顔で僕を迎えてくれたので、逆に僕の方がその笑顔に癒されていました。
まほちゃんが入院している小児科病棟には、他にも脳腫瘍や小児ガンで入院している子供達がたくさんいました。
抗がん剤の点滴治療でゲーゲー吐いている子供さんも、決して弱音を吐いたりせずに辛い抗がん剤治療を頑張って続けていました。
血管が細いので点滴を入れるのに何回も針を刺されても、グッと痛いのを我慢できる子もたくさんいました。
大人の患者さんよりも、ずっと我慢強く辛い治療に望んでいる患児たちの姿を見ていると、胸が熱くなる気持ちでいっぱいになります。
まほちゃんとは特に仲良くなり、ベッドサイドで一緒に折り紙をしたりすることもありました。
折り紙をしている時に「先生、これあげる」って、まほちゃんのおやつを少し分けてもらったこともあります。
僕のためにちゃんととって分けてくれていたようです。
髪の毛を二つにくくり、きちんと身だしなみを整えて、僕が来るのを心待ちにしてくれていました。
こんな可愛い5才女の子が、脳幹腫瘍で余命一年もないというのが信じられないくらいでした。
そして入院から約一ヶ月、まほちゃんの放射線治療は無事終了しました。
フラフラしていてまっすぐ歩くことはできませんでしたが、ご両親に支えられながら自分の足で歩いて退院することができました。
退院後は定期的に脳の検査を行い、脳幹腫瘍が大きくなっていないかどうかをチェックします。
退院する時にまほちゃんから「先生、またあそんでね」と、いつもの笑顔でお願いされました。
退院用に可愛い洋服を着て、髪の毛はいつも通り二つにくくり、ニコニコしているまほちゃんを見ていると、脳に深刻な病気を抱えているようには見えません。
普通の5才のかわいい女の子です。
「また」ってことは、もう一回入院しなきゃいけないんだよ・・・って僕は思いましたが、そんな残酷なことを、こんな小さな女の子に伝えることもできないので、
「まほちゃん、また遊ぼうね!」
と、笑顔で病院から送り出してあげました。
これがまほちゃんとの最後のお別れになるとは、その時は思いもよらなかったのです。
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突然のお別れ・・・そして、最後のメッセージ
大学病院での研修医生活も終盤を迎え、日々の激務に追われながらも、次の病院への転勤の準備も進めていました。
僕を指導してくれる上級医が”カテーテル治療専門”の先生に変わったのをきっかけに、小児科病棟へ行くことは一切なくなりました。
そしていよいよ次の病院へ転勤となる10月のことです。
最初に僕の指導医をしてくれた先生が、朝のカンファレンスの前に声をかけてきたのです。
「4月に一緒に担当してたまほちゃんって覚えてる?」
「えっ、はい!もちろん覚えてますよ。あの脳幹腫瘍の女の子ですよね?」
日々の激務に忙殺され、忘れかけていたまほちゃんの名前を突然言われてびっくりしました。
「まほちゃんが・・・どうかしたのですか?」
「あの子ね・・・こないだ亡くなったんだよ」
「えっ!!・・・本当ですか!?」
「脳幹腫瘍が大きくなってきたから再入院したんだけど、最後は呼吸停止で。延命は希望されなかったよ」
「・・・・・。」
あまりの突然の話に、言葉を失ってしまいました。
まほちゃんが再入院していたことに全く気づいてあげることができなかったのです。
もしかしたらまほちゃんは、僕が回診してくるのを毎日待っていたかもしれないのです。
髪の毛を二つにくくって、笑顔で折り紙を準備して・・・。
「残念だったけど、脳幹腫瘍じゃ仕方ないよな〜」
(仕方ないじゃないよ・・・)
「最後は静かに眠るように逝ったよ」
(なんで一言教えてくれなかったんだよ・・・)
「それでな、これ。まほちゃんのご両親から預かったんだ。ぜひお前に渡してほしいって」
そう言いながら、白衣のポケットから小さな封筒を取り出して僕に手渡してくれました。
白くて小さな封筒で、可愛いウサギのキャラクターのシールが貼ってありました。
朝のカンファレンスが始まりそうになっていましたが、僕は自分の席について、机の下で誰にも見つからないようにその封筒を開けてみました。
そして中かからはこんな手紙が出てきたのです。
それは忘れもしない、まほちゃんの字です。
研修医成り立ての頃、ベッドサイドで一緒に折り紙をしたり、お絵かきをした・・・
どんな辛い治療も笑顔で頑張ったまほちゃんからの手紙でした。
一気に全身に襲いかかってくるような寂しさが込み上げてきました。
まほちゃんはやっぱり僕のことを、毎日毎日待ってくれていたんだ・・・。
どんどん悪くなっていく意識の中で、頑張って僕に手紙を書いてくれたんだ・・・。
震える手で、その手紙をおそるおそる開いてみました。
まほちゃんからの最後のメッセージが書かれていたのです。
まほちゃん・・・もう遅いよ。
もう一緒に遊べないじゃないか。
また遊ぼうねって、最後に約束したはずなのに・・・。
でも、約束を果たせなかったのは先生の責任・・・だよね・・・ごめん。
医師という仕事をしていると、2種類の「ありがとうございました」という言葉をいただきます。
一つは元気にしてくれて「ありがとうございました」という感謝の言葉。
そしてもう一つは、病気のために命を落としたけど頑張って治療を尽くしてもらって「ありがとうございました」という、こちらも感謝の言葉です。
同じ”感謝の言葉”なのに、全く正反対の結果です。
そして中には、脳幹腫瘍で亡くなった5才のまほちゃんのように、最後を看取ってあげることができない患者さんもいます。
いろんな人生がありますが、わずか5才で命を落としたまほちゃんのような子供さんたちをみていると、いつも思い出す言葉があります。
あなたが虚しく過ごしたきょうという日は、
きのう死んでいったものが、
あれほど生きたいと願ったあした
引用:『カシコギ』趙昌仁より
白血病の息子さんと、その子を必死で看病するお父さんとの話『カシコギ 』から引用しました。
僕たちがボ〜ッとして生きている「今日」という一日は、昨日亡くなった人が「どうしても生きていたい」って思っていた一日と同じなんですよ、という意味です。
もちろん、誰かが「死にたい」って思っている今日という一日も、病気で亡くなった人にとっては「生きたい」って思っていた一日と同じ日です。
もしまほちゃんが脳幹腫瘍で亡くなっていなければ、20歳くらいになっていたはずです。
もし生きてたら、まほちゃん目には一体どんな世界が映っていたんだろうなあ・・・。
ブログを書きながら、そんな思いを馳せてしまいます。
生きたくても、生きることができない人がたくさんいます。
僕たちは”今日”という一日を、もっともっと大切にしなきゃだめですね ^ ^
それではまた!